交城県教育長の挨拶
逗葉日中友好協会は、21世紀最初の年である2001(平成13)年5月に、中国山西省交城県魏家溝村に小学校の校舎を寄贈しました。その時、贈呈のために訪中した逗葉日中代表団は魏家溝村の小学生から 大変な歓迎を受けました。私もその一員でしたが、生徒達の可愛い真剣な歓迎姿は、このような歓迎に会うことは成人してからはほとんどなかったからであろううか、今でも時々、鮮明に思い出します。 4年後の平成17(2005)年に、DVD機器などの教育機器や文房具などを持って、再び魏家溝小を訪れました。その時、交城県の教育長は歓迎と寄贈品のお礼の挨拶の中で、魏家溝小学校の近くにある古刹の玄中寺が日本との文化交流に大いに寄与したことを話され、これからもその歴史を生かした交流を発展させたいと希望を話されました。
玄中寺と善導大師と法然上人
日本に帰ってから、急いで玄中寺について調べてみました。この寺は今から1,500年以上前、北魏の高僧・曇鸞(どんらん)大師によって孝文帝の延興2年から承明元年にかけて建立され、曇鸞はここで浄土教の教学と 実践を行い隋末の道綽(どうしゃく)禅師、さらに善導(ぜんどう)大師と、直接・間接に、教えが引き継がれ、涅槃・浄土の教えが中国で広まったと言うことが分かりました。
そして、日本にとって大変重要なことは、法然上人が ’万民救済’ の道を求めて悩んでいる時に、善導大師が書かれた『観経疏(かんぎょうしょ)』を読んで忽然として悟り、日本に初めて浄土宗を開創して『自らを’罪深い凡夫’と自覚することと、人間の思惑や力を遥かに越えた”法の働き=他力”とがダイナミックに交錯する中で仏の加護を感謝する生活をする文化、が芽生えたことだと思います。
参考のため、日本で多くの方に読まれている法然上人の弟子・親鸞の弟子・唯円が書いた「歎異抄」の中で、善導が日本の浄土宗の中でどれらけ尊敬されているかを知ることができる部分を引用させて頂きます。 『・・・ 釈尊の説教、虚言なかるべからず。佛説まことにおわしまさば、善導の御釈(おんしゃく)、虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、 法然のおおせそらごとならんや。』
私たちの周りには、”偶然の出会い”、”不思議な縁”などと形容したくなる出来ごとが、結構数多くありますが、私が今や日中文化交流史の大変大切な一ページとなった、玄中寺と日本の浄土文化交流の関係を、魏家溝小学校への校舎寄贈を通して知る機会を持てたことも、予想していなかった有り難い出会いでした。このような訪中の機会をつくってくれた逗葉日中友好協会にお礼申し上げたいと思います。(AU生記)